BLOG, 思うこと

某大学学長に聞いた「数ある選択肢の中から、”あえて大学進学を選ぶ”そこで学ぶ意義」

 

日本の大学の進学率は約50%。

お隣、韓国は約90%が進学。

その数字を考えた時、我々日本人が進学という道をとると行為の意義について、ある程度考える余地があると思います。

ただ、前提として、いわゆる有名大学に通っている人は、そこに意義を感じて、自らの意思で大学進学を選ぶという意識は少ないかもしれない。

というのも、彼らの多くは高校が進学校であり、進学率はほぼ100%に近いため、多数心理が働いて、なんとなく大学へ行くという人が多いと思うし、それは仕方ない。

僕自身は、有名大学に進学する人は全体の1割もいない高校に通っていたため、単なるハングリー精神と、まだまだ学歴至上主義の日本においての人生への保険という意味をかねて、大学進学を選んだ。そういった経緯は少し違えど、結局、僕の感覚では、僕も含めて「なんとなく」が多数を占めていると思う。

これは今回言いたいことの前置きで、「なんとなく」進学することを全く否定するつもりはなくて、言いたいことは「じゃあ、なんとなく大学へ通って、学ぶべきことはいったい何なのか」ってこと。

先日は大学の学長とお話して、思ったことをご紹介しておきます。

大学で学んだことが社会に役立つ?

 

実際のところ、大学での学問が社会に役立つことは皆無。僕は法学部だから、法律を学ぶわけだけど、ぶっちゃけた話、実務的に役立つことはほとんどない。まあ、普通の人が呼んでも呪文にしか見えない専門用語だらけの法律の書籍を読めるくらいのことはできるけど。

自分の学部とは全く関係のない職業につく人が多くを占めることからも、大学で学ぶことと社会に出てから関わることとの関係性はあまりないというのは分かると思います。(特に社会科学系学部については。)

では一体、彼らは何を学ぶべきなのか。

それは、あらゆる価値を相対化してモノを見る力。

言い換えると、大学進学者が身につけないと行けないのは近代的なモノの見方。

極論で話すと、全く進学していない人は親や地域の影響をもろに受け、それがその人の価値観として形成される。これは近代的なモノの見方と相反する伝統的なモノの見方。

近代的なものの見方とは、伝統から独立して、あらゆる価値感を自分の中で柔軟に処理する力のこと。

大学で学ぶことと、高校までで学ぶことの大きな違いは、正解がないということ。

法学部で考えると、Aという判例(裁判での判決例)があるけど、Bという判例もある。どちらも正しいとされているし、その根拠もどちらも正しい。その答えが導かれるまでのロジックを理解することに意義がある。

意識的にこういう姿勢で学んでいると、日常から無意識レベルであらゆる考えを柔軟に受入れる癖がつく。

Aさんはこういってるけど、Bさんはこういってる。どっちも正しい。そのどちらの価値も受け入れて、論理的にモノを考え、ベストな選択をする。

ここに大学で学ぶことの意義あると学長は話てくれた。

自分の意識レベルの低さを残念に思ったと共に、これからの大学教育についての話も聞けて、とても有意義な時間を過ごせました。

今、クソ高い学費を払って大学に在学している人、もしくは何かを学んでいる人はこういった視点を少しでも持っていると、より充実したものになるのかもしれませんね。